菊池川は、阿蘇と有明海を結び、山から湧き出たミネラルと海からのミネラルをゆったりとした流れに乗せて流域に恵みを与えている。
山海のミネラルは、豊かな食文化を育み、温泉や幻想的な菊池渓谷などの景観とともに、人々が健康に豊かに生きるために必要な心のミネラルをもたらしてくれる。
連綿と続く人々の営みが結んできた、水の恵みをめぐることができる日本の原風景。それが、ここ菊池川流域ミネラルランド。
ほぼ全国的に米作りが行われるようになった弥生時代。熊本県北部の
その後、鉄製農具を利用して生産性を高め、米作りで豊かな土地となっていった。こうした豊かさが、豪華な副葬品が出土した「
菊池川流域は、阿蘇外輪山の菊池渓谷を源とする清らかでミネラル豊富な水に恵まれた地域である。約二千年前、最初は小さな水田から始まった米作りだったが、
また、大和朝廷は米の豊かなこの土地の高台に古代山城「
中世以降、山間では、溜め池造成や水路建設などの農業土木技術の向上によって、菊池川流域でも
江戸時代になると測量技術や土木技術が更に向上し、各地に長距離の井手が通された。全長11kmの「
番所地区の棚田は、急峻な山の斜面を切り拓き石積みを組んだものであるが、集落内の住宅等も石積みの上に築かれ、
近世以降、海辺では、
明治時代中頃には高さ3~6mの石積みが長さ5.2km にも及ぶ、当時国内最大級の「旧
近代に入ると菊池川沿いの沼地では、菊池市出身の農業技術者、
菊池川は水田を潤すだけでなく、米の輸送にも欠かせないものだった。
11世紀頃から450年にわたる歴史の中で一時は九州を平定した菊池一族は、菊池川での米の輸送などで財を成し、安定した統治を行うことで米作りの発展に寄与した。江戸時代に入ると、菊池川の水運はますます重要となった。菊池川を下ると石垣で整備された「
江戸時代、菊池川の舟着場と「
また、米問屋や造り酒屋などで財を成した商人達が出資して建てられた明治期の芝居小屋「八千代座」も、当時の賑わいに負けず、今も多くの歌舞伎役者や地元の人々に愛されており、往時の風情を堪能することができる。
菊池川流域では、田の神に豊作を祈るための様々な祭りや風習が受け継がれている。小正月頃、子どもたちが田の
また、この地方に伝わる食事の中には、菊池川が流れこむ有明海で採れた新鮮なこのしろにすし飯を詰めた「このしろの丸ずし」や菊池川で獲れたモクズガニのみそが溶け込んだ「ガネめし」など、地域の食材と混ぜ合わせた米どころならではの料理が残っている。
この地方の伝統的な酒「
古代から脈々と続けられてきた米作りの営みは、江戸時代には「天下第一の米」と呼ばれる肥後米の中心産地として発展していった。将軍の
このように菊池川流域には、平地には古代の条里、山間には中世以降の
これはまさに古代から現代までの日本の米作り文化の縮図であり、菊池川流域は日本の米作りの文化的景観とそれによってもたらされた芸能や食文化に出会える稀有な場所なのである。