構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 未指定 |
ストーリーの中の位置づけ | 明治時代、菊池市出身の冨田甚平(とみたじんぺい)が開発した湿田を乾田 化する効率的な排水法。現在も塩化ビニル製の水閘(すいこう)となって利 用されている。この技術の導入で、全国の耕地面積、面積あたりの収穫量が増大した。 |
文化財の所在 | KIKUCHI |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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冨田式暗渠排水技術 | 冨田甚平は嘉永元年(1848年)、菊池郡砦村大字台(うてな)字水島(現菊池市七城町)に生まれました。甚平の生まれた台地区周辺の田んぼは、当時たいへん水はけが悪く、農作業がとても大変でした。甚平は田んぼのあぜ一つ違うだけで収穫に大きな差があることに気がつきます。その原因が主に地下水にあることをつきとめました。地下水を調節することができれば、質の低い水田も乾田並みの等級に高めることができると考えます。このことが暗渠排水技術の研究の出発点になりました。 明治11年(1878年)、1反4畝の小さな湿田を購入し、排水の実験を始めました。甚平は実験をつづけ、およそ25年もかけて暗渠(あんきょ)排水技術を考えだしました。排水のための土管を水田に埋め、排水、給水をコントロールするものです。水田からの排水口と水田外への排水口の高さが違うため、排水口に蓋をすれば水は流れずに水田となり、蓋を上げると水は流れるために田が乾く仕組みになっています。 この技術により、菊池だけでなく全国の多くの湿田が良質な田んぼへと変わっていき、全国の耕地面積、面積あたりの米の収穫量が増大しました。晩年、甚平は土地改良技術や農事改良全般の指導のため、日本各地に招かれています。暗渠排水技術の開発者だけではなく、農業のすぐれた指導者でもあったのです。 冨田甚平顕彰碑と墓は台城跡近くにあります。土管は七城公民館にて常時展示しています。現在もこの技術は塩化ビニル製の水閘(すいこう)となって利用されています。 |