構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 市指定(史跡)ほか |
ストーリーの中の位置づけ | 中世に安定した統治を行い米作りの発展に寄与した菊池氏の初代則隆が、 延久2(1070)年に菊池川のほとりに構えた居館跡と船着場跡。 |
文化財の所在 | KIKUCHI |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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菊之城跡(北宮館跡) | 別名を菊池古城(きくちこじょう)、深川城、雲上城(くものえじょう) といい、大宰府の荘官として赴任した藤原則隆(のりたか)が延久2年(1070年)に館を構えた場所で、城としての備えをある程度持っていたと考えられています。当時の交通手段は主に舟運に頼っていましたが、菊池川に堤防がなかったときの自然の流れでは、この辺りが舟着場であったと思われます。周囲の地形は、この右岸を要とした穀倉地帯が扇状に広がっています。また、舟着場のある対岸の赤星荘も菊池一族の支配地でした。 この城はある程度の防備機能を有していたとされますが、本来の守備には適していなかったようで、南北朝の騒乱期に入り14代武士(たけひと)のときに、合志幸隆によりこの城が奪われてしまう事態が起こりましたが、武士の兄武光(たけみつ)が奪還して15代を継承しました。その後16代武政(たけまさ)の時に、より守備に適した守山城のある隈府(わいふ)に本拠地が移されたと伝えられています。 城跡から西に200mほどの場所に菊池初代則隆の墓があり、さらにその少し先に復元された「菊之池」があります。 字図を見ると、現在碑の建つ場所は「城の堀」となっており、東に向かって「下市場(しもいちば)、上市場(かみいちば)」と続いています。この付近は当時菊池氏の経済的活動が行われていた本拠地ではないかと推測されます。 菊池一族は、菊池川での河川舟運による米の輸送などで財を成し、450年にわたる長期の安定した統治を行い、菊池川の米作りの発展に寄与しました。 令和6年2月21日に国指定史跡となった「菊池氏遺跡」の構成要素の一つでもあり、「北宮館跡」と名称を変更しました。 |