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蒲生 湯の口ため池(ダム)
構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 未指定 |
ストーリーの中の位置づけ | 新たな水田に水をひくため、用水路やため池を造った。用水路は井手(いで)と呼ばれ、「原井手(はるいで)」など岩盤を長い距離刳り貫いたものもある。大規模なため池は、堤防を石積で築いた。 |
文化財の所在 | TAMANA、YAMAGA、KIKUCHI、NAGOMI |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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湯の口ため池(蒲生池) | 山鹿市の北東部、蒲生地区にある「湯の口溜め池」は、江戸時代のものとしては県下最大級の溜め池です。 古くから水が乏しいこの地域では、日照りが続くと米が取れず、苦しい生活を送っていました。江戸時代末期、この地に惣庄屋(そうじょうや:村役人の最上位)兼代官としてやってきた遠山弥二兵衛(やじべえ)は溜め池造りを計画します。 遠く上内田川からおよそ3キロの水路を掘り、さらにその間には1kmのトンネルをくり抜くなどの大変な工事を3年がかりで成し遂げました。安政4年(1857年)のことです。完成の日、いよいよ溜め池の水門を開けるとき、弥二兵衛は白装束姿で刀を持ち、万が一、堤防が崩れるようなことがあったら、切腹する覚悟だったそうです。 溜め池の完成により50万トンの水を蓄えることができるようになり、ため池の下流地域におよそ30ヘクタールの水田が新たに開発されました。さらに、一反あたりの米の収穫量は2俵から5~6俵に増え、村人の暮らしは豊かになりました。 弥二兵衛の死後、堤防の上に築かれた遠山神社では、その功績をたたえる「遠山祭」が毎年4月4日に催されています。 |
古川兵戸井手 | 東迫間(ひがしはざま)・戸豊水(とりゅうず)・赤星の3つの村を兼任した庄屋平山八左衛門(ひらやまはちざえもん)は、土木工事にかけて菊池を代表する人でした。 文化13年(1816年)に完成した平野井手は原井手の農民から厳しい条件(飲み水が主でその余りの水で畑をまかなう等)がつけられていました。2年後に今までにない大干ばつにみまわれたことから、新たに大分県の上津江村の兵藤谷を水源とする川原川の水を堰き止めて、トンネルを掘って戸豊水・平野地域の水田に水を引くという計画が立てられました。八左衛門の日記風の記録には、文政5年8月末に隈府を出立し、日田代官(当時幕領であったため幕府の許可を得る必要がありました)に井手開設の願書を出しに行き、9月まで頼み込んだという詳細が伝えられています。5年後の文政10年(1827年)9月に開設の許可がおりています。 文政10年に起工し、村民は20数キロ離れた兵藤山に山小屋を建て、昼も夜も工事に取り掛かりました。岩は花崗岩のため硬く、石積みや漆喰の補強をしながら、苦難の工事を6年間続け、天保4年(1833年)、通水に成功します。水量が充分ではなかったため、井手の修理と馬見野堤の改修に更に2年を費やし、天保6年(1835年)に完成し、およそ183町の水田に水が行きわたるようになりました。 現在でも古川兵戸井手は、国土交通省が新たに造った菊池川の立門揚水場から台地に水を送り続けています。 総延長:約19km |
築地井手 | 菊池川水系でも歴史の古い築地井手は、寛政6年(1794年)の渋江松石(しぶえ しょうせき)著『菊池風土記』によると、加藤氏が肥後を統治していた慶長年間(1596~1615年)に築かれたといわれています。『菊池風土記』には、井手によって水が供給される地域も書かれ、菊池の中心部である隈府(わいふ)の南側の村落名と共に神来(おとど)や野間口(のまぐち)など、隈府の西側の迫間川(はざまがわ)がすぐ近くを流れる地域まで、その水田面積は220haとされています。築地井手は『菊池郡誌』に「隈府町の東端字築地より菊池川を分水したる溝渠(こうきょ)を築地井手と称す」と記されているように、築地に取水口を設け、隈府の南側を通るように井手が造られています。現在の正観寺付近で二手に分かれ南側を通る井手は、その後に掘られたものであり、新堀井手とよばれています。 井手は、人びとが顔を洗ったり、米をといだり、食器をすすいだりと家事で使用したり、昔は藁葺屋根で火事が多く、防火用水としての役割も果たしていました。 また、学校帰りの子どもたちが井手に足を浸し、一時の涼を得るなど、身近に井手の流れを感じることができたそうです。総延長:約6.5km |
原井手 | 原井手(はるいで)は米作りに欠かせない水を確保し水の届かない新たな土地に田を拓くため、川に堰を設けて水を取り込み、山を拓き、岩を穿って水路を掘り、用水路とするため、菊池川の最上流域の大場堰を取水口として工事が行われました。工事は元禄11年(1698年)に開始され、3年後に完成しました。用水路の長さは6,063間(約11km)で、約200町(ha)の水田に水を供給しました。水路が造られた場所は菊池市東側の丘陵地です。この水路は平野ではなく丘陵部の水田に水を供給する目的であったことが分かります(菊池市土地改良区「菊池市農業用施設位置図」)。この井手の隧道(ずいどう:トンネル)は、肥後藩最古の水路トンネルという点で、農業土木技術史上高く評価され、重要なものとして位置づけられています。掘削した水路トンネルの長さは250間(約450m)あります。 原井手の開発に尽力したのは、河原(かわはる)手永の惣庄屋の河原杢左衛門(かわはらもくざえもん)が私財を投げ打って造りました。現在もこの井手は現役の用水路として活用されています。 |