構成文化財の名称 | |
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指定等の状況 | 国指定(史跡)ほか |
ストーリーの中の位置づけ | 江戸時代に米の積み出しで栄えた高瀬や大浜などの港町があり、高瀬、晒 (さらし)、千田川原(せんだがわら)などに俵ころがしと呼ばれる石畳の斜路や石段、石垣など船着場の施設が残る。 |
文化財の所在 | TAMANA |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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千田川原船着場跡 | 菊池川河口から約6.8㎞上流の地点で、対岸の高瀬船着場よりやや下流の場所に位置しています。千田川原船着場跡は、安政2年(1855年)作成の「菊池川全図」に描かれた高瀬船着場と同様の斜路(通称:俵ころがし)が描かれており、菊池川流域の米流通の一翼を担ていた可能性が考えられますが、現状では確認することができませんでした。平成15年、船着場の規模や施設などを確認することを目的とし、発掘調査(トレンチ調査)を行いました。調査では絵図に描かれていた石畳の斜路が発見され、現在も土砂の下に千田川原船着場が残っていることがわかりました。 また、千田川原船着場跡の近隣には貝灰を作成する炉が存在しており、船着場は、近年まで海から貝を運ぶために利用されていたこともわかりました。しかしながら、トレンチ調査のため船着場の詳細はわかっておらず、調査で掘削したトレンチも埋め戻したため、現状ではその姿を確認することはできず、全体像も不明となっています。 |
晒船着場 | 菊池川右岸の最下流部に位置する晒(さらし)は、寛永16年(1634)には川口番所が置かれ、のち晒番所として鉄砲や槍などが配備されました。文化5年(1808)には、河床が浅くなり高瀬御蔵まで川を遡ることが困難になっていたことから、晒に御米山床(おこめやまとこ:米俵を野積みし検査をする広場)が整備されました。江戸時代後期になると米の取扱い量が増え、晒が高瀬御蔵の支所として機能するよう整備されます。 さらに天保5年(1835)以降逐次整備され、番所としての役割に加え、平田舟から中型船の上荷船(うわにぶね)へ年貢米などの荷物を積み替える中継地点、また年貢米の検査場として重要な役割を果たすようになりました。 安政2年(1855)作成の「菊池川全図」には、堤防沿いに上流から津口改小屋、ワク1基、俵ころがし2基、ワク2基が描かれ、また堤防内には俵ころがしに隣接して「晒御米山床」などの施設が描かれています。このうち、俵ころがし2基と下流のワク2基が現存します。 |
高瀬船着場跡 | 高瀬船着場跡は菊池川下流右岸に創設された河港です。周辺は、中世には高瀬津と呼ばれ、伊倉の丹倍津(ねべつ)とともに有明海沿岸の河港として唐船も出入りしていました。海外渡航や貿易などで早くから重視され、南北朝時代にはすでに港としての体裁を整えると、室町時代の頃には本格的な港にまで成長し、中世以降の肥後北部の重要な港として栄えました。 安土桃山時代、加藤清正の入国後、この地にあった寺院「永徳寺」を移転させ、その跡地に菊池川流域でとれた米の集積地として米蔵を設置し、その隣に船着場を整備したと伝わります。加藤家の改易後、船着場は細川家が受け継ぎ、堤防下の川岸に堅固な石畳と石垣を築き、米蔵へ通ずる石段と、米蔵より川へ通ずる石敷の坂道(通称:俵ころがし)と川へ突出する石畳を設けました。 菊池川流域から集められた米俵は、一旦、御蔵(おくら)へ運び込まれ、品質などの厳しい検査が行われ、再び平田舟(ひらたぶね)に積み込まれます。その後は、河口にある晒(さらし)船着場で中型船(上荷船〔うわにぶね〕)に載せ替えられ、さらに有明海沖に停泊中の大型船へと積み込まれ、大坂堂島の蔵屋敷へ納められました。 |