構成文化財の名称 | 菊池川流域の装飾古墳群 |
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指定等の状況 | 国史跡ほか |
ストーリーの中の位置づけ | 米作りの富により繁栄した装飾古墳群。チブサン古墳をはじめ流域の装飾古墳は117 基を数え、国内一の密度を誇る。 |
文化財の所在 | TAMANA、YAMAGA、KIKUCHI、NAGOMI |
箇所が特定できない文化財については、大まかな位置を示しています。
構成文化財の名称 | 概要 |
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塚坊主古墳 | 塚坊主古墳は、和水町南西部の清原台地上に所在する前方後円墳です。 同台地上には塚坊主古墳のほかに江田船山古墳や虚空蔵塚古墳などの古墳が所在し、計4基の古墳群は清原古墳群といいます。塚坊主古墳は清原古墳群に現存する古墳の中で最後に築かれた古墳であり、6世紀初頭に位置付けられます。主体部は横穴式石室であり、石屋形の内壁に赤と白で丸、三角、四角の幾何学模様が描かれている装飾古墳です。 主体部となる石棺の形状から、江田船山古墳の系譜を引く古墳であり、江田船山古墳直系の子孫が葬られていたと考えられます。しかし、石室は盗掘を受けており、主要な遺物は失われています。 石室の見学室は装飾文様の保存のため、施錠して管理しています。秋と春に実施される装飾古墳一斉公開や、8月の和水町古墳祭で石室を公開するので、ぜひお越しください。 |
弁慶ヶ穴古墳 | 菊池川支流の岩野川左岸の丘陵西端に6世紀後半頃に造られた円墳です。 内部は全長約10mの複室の横穴式石室があり、長さ1m、厚さ50㎝を超える巨石を組み合わせて造られています。「これほど大きな石を組めるのは、弁慶に違いない」という村人たちの想像から「弁慶ヶ穴古墳」と呼ぶようになったと伝えられています。 石室の壁には多数の装飾が描かれています。特に目立つモチーフが馬と舟で、赤と白で力強く描かれています。 装飾保護のため古墳内部の公開は行っていませんが、等身大のレプリカが熊本県立装飾古墳館に展示されています。 昭和31年の山鹿高校考古学部が調査し、鉄鏃(てつぞく:鉄製の矢じり)や馬具などが出土し、これらの一部を現在山鹿市立博物館で展示しています。 菊池川流域は、米作りによる富を礎に、装飾古墳がたくさん造られています。 |
オブサン古墳 | 菊池川の支流の岩野川右岸の河岸段丘上に造られた円墳で、前方後円墳のチブサン古墳から直線距離で約300m北西に位置します。 造営時期はチブサン古墳より約50年ほど後の、古墳時代後期後半とされています。墳形は円墳ですが、入口の両脇に突堤(とってい)と呼ばれる突き出た部分がある非常に特異な形となっています。 内部は長さ1mを超える巨石を組み合わせた横穴式石室で、石室は前後に複数造られています。玄室(奥室)の床面の左側の仕切り石には赤色で三角文が描かれています。 地元ではお産の神様として「産さん(うぶさん)」と呼ばれ、それがなまって「オブサン」と呼ばれるようになったと伝えられています。 菊池川流域では米作りの富を礎としてこのような装飾古墳が盛んに造られ、装飾古墳の一大集積地となりました。 |
鍋田横穴 | 菊池川とその支流の岩野川が合流する地点の鍋田台地崖面(東面、南面)に造営されたお墓です。 全61基のうち16基に装飾が見られ、中でも27号横穴には入口の脇に人物や弓矢などの武器を浮彫で表現されています。さらに、国道443号沿いにある横穴には、赤色顔料のほか靱(ゆぎ:矢を入れる筒状の道具)や弓矢、人物などの浮彫が残っています。 菊池川流域では米作りの富を礎としてこのような装飾古墳が盛んに造られ、装飾古墳の一大集積地となりました。 |
岩原横穴群 | 菊池川中流域左岸の、岩原古墳群が所在する岩原台地(標高75m)の北側から西側にかけての崖面に形成された横穴墓群で、計131基の横穴墓が確認されています。地形から6つの群(Ⅰ~Ⅵ群)に分けることができ、なかでもⅠ群は48基と最も多くの横穴墓で構成されます。 各横穴墓は、入口となる羨門と、奥には玄室とよばれる部屋が設けられており、玄室内は真ん中の通路を挟んで左と右、それから奥と、遺体を置くための屍床が「コ」字形に設けられています。 横穴墓のうち8基に、線刻や浮彫、彩色による装飾がみられます。Ⅰ群14号墓では、奥屍床の仕切りがゴンドラ形に表現され、前面は赤色で彩色されています。Ⅰ群32号墓の左外壁には、矢筒である「靫(ゆぎ)」が浮彫で描かれています。現在、Ⅰ群が、岩原古墳群とともに「肥後古代の森鹿央地区」として、解説板、駐車場などが整備されていて、靱の装飾は駐車場から見ることができます。周辺の草木が枯れ、横穴墓が見やすくなる秋頃がおすすめの時期ですが、いずれの横穴墓も崖地にあるため、近寄っての見学には注意が必要です。 菊池川流域では米作りの富を礎としてこのような装飾古墳が盛んに造られ、装飾古墳の一大集積地となりました。 |
田崎横穴群 | 田崎横穴群は菊池川左岸の玉名平野を西に望む寺田台地における東端部の凝灰岩崖面に開口した4基の横穴群です。4基の内3基の横穴は並んで掘られていますが、残りの1基の横穴は30m程離れたところに造られています。この離れたところにある横穴は埋もれかかっていることから、この周辺には埋もれた横穴が数基残っている可能性が考えられます。田崎横穴群のうち、西から二番目の横穴は複室構造をしており、玄室西側に屍床(ししょう:遺体を安置する場所)をもっています。なお、この玄室は造られた時のノミの工具痕が目立ち、未完成のまま使用された可能性が指摘されています。 また、一番西端にある横穴には装飾が残っています。この横穴には一重の飾縁(かざりぶち:入口の縁部分)がみられますが、その飾縁に白い顔料を用いて円形を描きその周りを赤い顔料で囲ったものを4個以上描いていると考えられまが、風化が激しいため詳細は分かっていません。また石室内の天井にも赤い顔料で点状の円を描いたものが残っています。 |
城迫間横穴群 | 城迫間(じょうはざま)横穴群は、菊池川右岸、玉名平野の最奥部にある溝上集落から谷を250m 程登った標高約40mのところにある横穴群です。周辺には前田古墳,宮の後古墳,真福寺古墳, 真福寺東古墳など多くの古墳が見られます。横穴群は高さ約7mの凝灰岩(ぎょうかいがん)崖面の南面に造られ,21mの範囲に5基確認されています。また、東側から順に横穴が造らた位置が高くなっていくという特徴があります。城迫間横穴群は、すべて三方に屍床(ししょう:遺体を安置する場所)をもっており,飾縁(かざりぶち:入口の縁部分)の形状が方形とアーチ形状のものがみられます。この横穴群のうち3つの横穴は、装飾が確認されています。 確認された装飾は、赤色や白色の顔料による装飾と線刻のもので、顔料による装飾は風化が激しく文様形状は不明ですが、線刻は、飾縁にゴンドラが描かれたものが残っています。玉名地方では羨門(せんもん:前室の入口)より外に幾何学模様を描く例が多いですが、具象的な図柄を描く例は少なく、このゴンドラの線刻は大変珍しい事例です。 |
横畑横穴群 | 菊池川とその支流である三蔵川の合流地点から1.2km程さかのぼったところの北岸、月田山(つきださん?)から伸びた丘陵の南西側、標高約40mのところに溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の露頭があり、その約70mの範囲内に10基の横穴が残っています。10基の内の8基は比較的密集していますが、2基は離れた位置に横穴が見られます。10基のうちほとんどの横穴は左右と奥の三方に屍床(ししょう:遺体を安置する場所)をもつ構造をしていますが、2基は床が平坦で平面形状が方形となっています。また横穴に付属した小型横穴も1基残っています。天井の形状は、家形をしているものからドーム状になったもの、またその中間の形態をとるものなどバリエーションがあり、家形の形状をしたものが古いと考えられています。飾縁に装飾が施されたものがみられるため、菊池川流域の装飾古墳に数えられていますが、中でも10号横穴は飾縁に赤い顔料で点を描き、その周辺を白の顔料で四角形ないし五角形で囲んだ文様が残っています。また、4号横穴では内壁が全面赤く塗られている状況が確認されました。 |
永安寺西古墳 | 永安寺西古墳は、永安寺東古墳と並び菊池川右岸の玉名平野をのぞむ丘陵の先端に位置しており、6世紀末から7世紀前半に築造された円墳と考えられます。石室は横穴式石室で、単室の石室と考えられていましたが、平成14年の発掘調査により、前室などの石材が発見されたことから、複室構造であったことがわかりました。玄室には、遺体を安置する石屋形が設けられていましたが石屋形の天井は失われており、両側壁も根本を残すのみとなっています。玄室の三方の壁面(東西壁面と奥壁)には線刻により3列の円文や円文を区切る直線が残っています。東壁面には鉾のような線刻もみられますが、これは後世の追刻の可能性も指摘されています。このような古墳が造られたのは玉名平野で行われた稲作による富の蓄積が原動力となっていたと考えられています。 平成6年に永安寺東古墳とともに公有地化を図り、平成11年から平成17年にかけて保存整備事業を実施、残っている墳丘を覆うドーム状の覆屋が造られました。平成28年熊本地震により被災しており、現在再整備に向けて計画を進めているところです。 |
永安寺東古墳 | 永安寺東古墳は、菊池川右岸の玉名平野をのぞむ丘陵の先端にあり、すぐ西隣には永安寺西古墳もあります。6世紀末から7世紀前半に築造された円墳と考えられますが、中世以降に削平され本来の姿は残っていません。石室は横穴式石室で、入り口から羨道(せんどう:石室への通路)を通って、手前に前室、その奥に玄室(奥室)がある「複室」とよばれる構造であり、玄室には、遺体を安置する石屋形が設けられています。前室と玄室入口には赤の顔料で描かれた、三角文・円文が見られ、特に前室の壁面には船・馬の絵も確認されています。このような古墳が造られたのは玉名平野で行われた稲作による富の蓄積が原動力となっていたと考えられています。 これらの貴重な古墳と装飾を保護するため、平成6年に永安寺西古墳とともに公有地化を図り、平成11年から平成17年にかけて保存整備事業を実施、石室を一部復元し、鉄筋コンクリート造の保護見学室を設置する工事を行いましたが、平成28年熊本地震により被災したため永安寺東古墳は、現在災害復旧工事を実施しています。 |
大坊古墳 | 大坊古墳は、菊池川右岸の玉名平野を望む丘陵の先端に位置する全長約50mの前方後円墳で、6世紀前半から中頃に造られたと考えられています。後円部には、南に開口する横穴式石室が設けられています。石室内は赤・黒・青(灰色)などの顔料で描かれた、連続三角文・円文で飾られています。玄室には、遺体を安置する石屋形が設けられており、見事な装飾が良好な状態で残っています。石室内などからは、土器類のほか、金製の垂飾(すいしょく)付耳飾りや、水晶製勾玉をはじめ玉類などの装身具、鞍金具や鐙(あぶみ)、杏葉(ぎょうよう)などの馬具、直刀や鉾などの武器が出土しており、一部は玉名市立歴史博物館「こころピア」に展示してあります。 大坊古墳は大正6年に京都帝国大学による調査が行われ、報告書が刊行されたことから、広く知られるようになりました。昭和38年の調査では、石室内にたまった土砂を取り除き、さらに装飾が明らかになりました。昭和52年には国指定史跡となり、貴重な装飾を守り、活用するため、保存整備工事が行われました。 |
原横穴群 | 原横穴群は繁根木(はねぎ)川右岸の富尾集落にある菅原神社の南側に面する崖面に掘り込まれた横穴群です。崖面約70mの範囲に16基の横穴が確認されています。横穴群はおおよそ奥と左右のコの字型に配置された屍床(ししょう:遺体を置く場所)をもっています。16基のうち6基の横穴に装飾が確認されており、その装飾の多くは線刻で、円文やシダのような植物、盾状のものや、頭が丸く髪は表現されていませんが、2本のかんざしを差し目は切れ長であごひげを伸ばした人物像が両手を左右にひろげ右手に棒状のものを持った様子が描かれていいるものなどが見られますが、線刻ではなく赤い顔料で、円文や三角文が飾り縁と呼ばれる横穴墓入口周辺に描かれた横穴墓も見つかっています。また装飾に含まれていませんが内と外の全面を赤い顔料で塗られたものも見られます。 昭和初期ごろ、この横穴墓群から鉄刀や須恵器が出土したという話がありますが、所在はわかっていません。 |
石貫古城横穴群 | 石貫古城横穴群は繁根木川右岸の石貫ナギノ横穴群のある丘陵から南へ約800m離れた丘陵に位置しています。横穴墓群は丘陵の先端部分、阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)の崖面に造られており、東側の崖面約100mの範囲に27基、南側の崖面50mの範囲に18基の横穴墓が確認されています。東側崖面の横穴墓は屍床(ししょう:遺体を置く場所)がコの字型に配置されているものがほとんどですが、南側崖面の横穴墓はコの字型以外に、左右のみに屍床があるものも見られます。石貫古城横穴群の中には線刻の装飾が見られるものがあり、中でも南側崖面の横穴墓の一つには舟を主体とした図柄が多く見られ、舟には帆が表現されていたり、舟の間に魚と考えられるものも描かれています。また鋸歯文が描かれたスカートのような衣装を身につけた人物が右手に棒状の道具のようなものを持っている様子も描かれたものもあります。別の横穴墓では麦を連想される線刻も確認されました。このような横穴群周辺には現在も水田風景を眺めることができますが、横穴を造った当時も似たような光景が広がっており、その地域の有力者がここに葬られたのでしょう |
石貫ナギノ横穴群 | 石貫ナギノ横穴群は繁根木(はねぎ)川右岸の灰石と呼ばれる阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)の崖面250メートルほどの範囲にわたって造られた横穴墓群で、その範囲内で48基の横穴墓が確認されています。これらは古墳時代後期後半に造られた横穴墓で、屍床(ししょう:遺体を置く場所)が一つの横穴墓につき3ヶ所設けられた横穴が多く見られ、屍床の仕切りがゴンドラの形に成形したものもあります。飾り縁と呼ばれる横穴墓入口周辺には、赤い顔料などで円文などの文様が描かれ、内部には屋根形の浮き彫りや太刀のレリーフ、船や円文の線刻など多種多様な装飾を確認することができます。特に6号墓と8号墓の飾縁は赤の円文などで鮮やかに装飾されており、横穴墓としての規模も大きいものとなっています。石貫穴観音横穴と同様に、石貫ナギノ横穴群周辺には現在も水田が広がっており、横穴築造当時も水田が広がっていたことが想像できます。その水田を経営していた有力者がこの横穴群に葬られたのかもしれません。 石貫ナギノ横穴群は石貫穴観音横穴とともに大正10年に装飾古墳としては日本国内で第一期となる国の史跡に指定されており、玉名市が全国に誇る装飾ある横穴墓群です。 |
石貫穴観音横穴 | 石貫ナギノ横穴群と同じ繁根木(はねぎ)川右岸丘陵の西側に5基の横穴墓が造られています。2号墓の内部に千手観音が彫られていることから石貫穴観音横穴と呼ばれています。1号墓から3号墓がほぼ同じ位置に並び、4号墓、5号墓がやや離れて低い位置にあります。規模は最大の2号墓で全長5.7メートル、最小の5号墓が約4メートルです。1号墓、2号墓の飾縁には赤や白の円文が描かれており、3号墓には赤彩が施されています。石貫穴観音横穴の周辺には現在も谷に水田が見られますが、横穴墓が造られた当時も、谷に水田があったことが想像できますが、石貫穴観音横穴はその水田を管理していた集団の有力者の墓であったことが伺われます。 大正10年に石貫ナギノ横穴群、石貫穴観音横穴と熊本県内の装飾古墳(井寺古墳・千金甲甲古墳・千金甲乙古墳・釜尾古墳・大村横穴群)と共に国の史跡に指定されています。これらは装飾古墳として日本国内で第一期の指定であり、その存在を広く世の中に広める第一歩となった、記念すべき史跡です。 |
経塚・大塚古墳群 | 経塚・大塚古墳群は、有明海を見下ろす丘陵上に所在する大塚古墳・経塚古墳・小塚古墳・経塚西古墳の4基から成る古墳群で、4世紀から5世紀の築造と考えられています。中でも経塚古墳は、4世紀末に築造されたと考えられ、直径約45メートル、高さ約7メートルの円墳で、凝灰岩製の舟形石棺が墳頂部から出土しており、内側の全面にはベンガラが塗布され、全長280センチメートル、幅80センチメートル、高さ150センチメートルを測り九州でも最大級の大きさを誇ります。石棺内からは、成人男性の人骨一体分と副葬品(外装付鉄剣・珠文帯〔しゅもんたい〕鏡・碧玉〔へきぎょく〕製管玉3点など)が出土し、石棺蓋の両側面には方形区画の線刻がある装飾古墳でもあります。このような古墳を築造できたのは、関連するような遺物は発見されていませんが稲作による富の蓄積によるものと考えられます。 周辺にはこの4基以外にも古墳が存在したといわれていますが、開墾などにより消滅したと考えられ、現在では確認することができません。経塚・大塚古墳群の出土品は、玉名市立歴史博物館こころピアや玉名市天水市民センター敷地内にて一部が展示しています。 |
大原箱式石棺 | 大原箱式石棺は、昭和42年の国道208号線(現 県道347号線)建設工事に伴い、玉名市岱明(たいめい)町野口字大原の耕作地の掘削をした際、弥生時代終末期の遺構が確認されたため、当時の岱明町教育委員会による調査が行われました。 調査の結果、安山岩製の箱式石棺、竪穴住居跡、土器(壺・高坏等)、鉄器(釘・斧・鎌・鏃・刀子等)が出土しました。箱式石棺が発見された場所の周辺は南大門遺跡・東南大門遺跡・木船西遺跡など多くの弥生時代中期から古墳時代前期の遺跡が存在する地域です。平成24年から平成26年に実施された南側隣接地の発掘調査でも、同時期の竪穴建物跡が多数発見されました。周辺の遺跡からは稲作関連の遺物も多数見つかっており、箱式石棺は、稲作により富を築いた有力者の墓であることが想定されます。箱式石棺は13基発見され、そのうち内の9号石棺には中央板石の内側に棹(さお)をさす小舟と輝く太陽と思われる線刻が残っています。現在、これらの内11基の箱式石棺は、岱明町公民館に移設し、復元されています。 |
袈裟尾高塚古墳 | 袈裟尾高塚古墳は菊池市の西北部、迫間川(はざまがわ)中流の右岸の標高138mの丘陵地にあります。 墳丘は径24.5m、高さ4.7mの円墳であり、菊池川最上流に位置する装飾古墳です。内部は南南西の方向に開口する横穴式石室で、前室と玄室に分かれており、全長は約7.22mあります。凝灰岩の巨石を壁石とし、その上に切石を積み上げて天井石を乗せて形成されています。玄室の左右に屍床(ししょう:遺体を安置する場所)、奥には石屋形(いしやかた:屋根のある遺体を安置する場所)があります。その奥壁に線刻で「靫(ゆぎ)」という矢筒を2つと三角文を配した装飾が施されています。玄門や側壁には赤・白色の顔料による彩色が残存する部分が認められます。また、玄門の楣石(まぐさいし)の上面にも靫の浮彫りが発見されています。どの装飾も素朴な原始文様であり、当時の人々の葬られる死者への思いが表現されています。副葬品として翡翠勾玉(ひすいまがたま)、硝子玉、金環などの装身具や刀子(とうす)、鉄鏃、轡(くつわ)や須恵器が出土しました。 この古墳は昭和53~55年度にかけて調査・保存修理が実施され、復元しています。 熊本県指定文化財。 |
チブサン古墳 | チブサン古墳は、菊池川の支流岩野川右岸の段丘に造られた、古墳時代後期(6世紀前半ごろ)のお墓です。 全長55m以上、後円部幅23m、前方部幅16.5m、高さ6mの前方後円墳で、埴輪(はにわ)・葺石(ふきいし)をもち、幅4~9mの周溝(しゅうこう)が巡ります。 後円部の内部に割り石を積み上げて作られた部屋(石室:せきしつ)が造られています。その石室の奥に石の棺おけの役割を持つ石屋形(いしやかた)があります。その石屋形の内壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれていています。 正面の二つ並んだ円が女性の乳房に見えることから「チブサン」呼ばれ、お乳の神様として祀られてきました。 内部の装飾の保存状態がとても良好で、熊本はもとより日本の壁画系装飾古墳を代表する一つとされます。 菊池川流域では米作りの富を礎としてこのような装飾古墳が盛んに造られ、装飾古墳の一大集積地となりました。 土・日曜・祝日の10時と14時に古墳内部の見学ができます。(各10名以内と制限させていただきます。) ご見学を希望される場合は事前に山鹿市立博物館へ予約し、見学時間10分前までに博物館へ見学料をお支払いください。 |